- チンギス=カンがモンゴル高原の遊牧諸部族を統一して建国し、彼とその子孫の征服によって大帝国となった。
- 極東から欧州までが領内となり、比較的治安が保たれ駅伝網が整備されたため、東西交流が活発化した。
- フビライ=カアンの即位時の内紛により、複数の王国に分裂し、緩やかな連合体へと移行した。
年号
1206~1303年頃
モンゴル帝国の解説
モンゴル帝国の成立
新興遊牧民モンゴル部出身のテムジン(後のチンギス・カン)は他の有力な部族であるケレイト部やメルキト部等を打倒、吸収してモンゴル高原を統一しました。そして1206年オノン河畔でクリルタイを開き、チンギス・カンを名乗って諸部族の指導者(カン)として即位、「モンゴル」という政治組織体を成立させました。この時点で「モンゴル」は部族名からモンゴル高原の遊牧民を総合した民族名、あるいは国名となりました。
帝国の拡大
チンギス・カンは西夏を攻撃すると共に西ウイグル国やカルルク国を帰属させるなど、モンゴル高原から外へ勢力を拡大し始めました。女真族の王朝金に度々侵入しては領土を削り取り、更にナイマン部に王位を簒奪されるなど弱体化していたカラ・キタイ(西遼)を滅亡させました。1219年にはホラズム王国へ遠征を開始し、1222年に滅ぼします。その後西北インドや南ロシアに侵入したのち東進し、服属を拒否した西夏を1227年に滅亡させました。チンギス・カンは同年病死します。 後継のオゴデイ=カアンは初めて君主号をカアン(大ハーン)と名乗ったと考えられています。以後、カアンは皇帝位に、カン(ハン)は王位に相当する君主号として使われていきます。1234年オゴデイは金に侵入してこれを滅亡させ、本格的に中国に進出します。1236年には甥のバトゥを総司令官として西征を敢行させ、南ロシアを征服、更にポーランドやハンガリーにも侵入しました。1241年にはバトゥはレグニツァの戦い(ワールシュタットの戦い)でドイツ・ポーランド連合軍を破るなど進軍を続けますが、1242年に前年末のオゴデイの死去にともなう帰還命令を受け、キプチャク草原まで撤退します。 次代を巡っての内紛によるカアン空位期間を経てグユク=カアンが即位し、南宋に攻撃を加えるなどしますがまもなく死去し、第4代モンケ=カアンの時代になります。彼は三弟のフレグを征西させて1258年にはバグダードを占領、アッバース朝を倒します。また、次弟のクビライに大理国を滅ぼさせ、チベットも支配下におきました。更に別途、高麗を服属させることに成功し、南宋征討も開始します。南宋征服は1279年第5代クビライ=カアンによって達成されることになります。
政治体制
チンギス・カンは遊牧民集団を千人単位の戦士からなる千戸制に再編成しました。千戸は百戸、十戸に細分され、各々を長が統率しました。千戸は軍事組織であると同時に中央集権的な社会統治機構として機能しました。また、早くから帰属していた西ウイグル王国からウイグル文字を学んでモンゴル語を表記することとし、ナイマン部から政治文書についての知識を得るなどし、政治体制を整えました。 後年、帝国の拡大と共に徴税と治安維持を目的とする監督官(ダルガチ)を各都市ごとに置いたり、さらにそれを統括する機関を置くようにもなりました。定住地の行政に不慣れなモンゴル人を補佐するべく、契丹人の耶律楚材やホラズムのヤラワチなど非モンゴル人が高官に取り立てられ、新税制の施行などに大きな役割を果たしました。
東西交流
オゴデイ=カアンは人や物の移動の速さと安全を確保するべく、1日行程の間隔で宿舎と人員、馬を備えた駅を設置して広大な駅伝網(ジャムチ)をつくりあげました。これにより、アジアとヨーロッパにまたがる交通路の治安が確保されることとなり、シルクロードが活況を呈します。西方のイスラム商人が多く活躍し、帝国で役人になるものも現れました。ヨーロッパ君主からの使節、例えばローマ教皇インノケンティウス4世の命によるプラノ=カルビニ、フランス王ルイ9世の命によるウィリアム=ルブルックらも派遣されてきました。彼らは帰国後に詳細な見聞録を残し、東西交渉史上の成果となりました。
モンゴル帝国の分裂と連合体形成
モンゴル帝国が分裂する遠因はいくつかありました。まず、領土が広大で、土地によって生活習慣に差があるため画一的な支配が困難であったこと、次にチンギス・カンがモンゴルの伝統である分割相続を行い、各地に諸子が君主として封じられたこと、また、大帝国を統率するカアン位はクリルタイでの選挙で選ばれるため、継承が不安定になることなどが挙げられます。 こうした背景のもと、モンケのあとのカアン位を巡ってそれぞれの領地の軍事力を動員した内紛が発生し、最終的にクビライが勝利してカアンとなりますが、事実上モンゴル帝国は分裂します。 中国を支配する元朝(大元・ウルス)、南ロシアを支配するキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)、中央アジアのチャガタイ・ハン国(チャガタイ・ウルス)、西アジアに拠ったイル・ハン国(フレグ・ウルス)、ジュンガル盆地を拠点とするカイドゥの国(通称オゴデイ・ハン国)の5つ(1310年頃、チャガタイ・ハン国がカイドゥの国を併合したことにより4つになる)の国々はそれぞれ実質的に独立しますが、元朝のカアンを宗主として緩やかな連合を14世紀前半まで続けていくことになります。
一問一答
Q.オゴタイ=カアンが整備した駅伝網をなんというか。 A.ジャムチ
参考
平凡社「世界大百科事典 第2版」 日本文芸社「面白いほどよくわかる世界史」 講談社「興亡の世界史09 モンゴル帝国と長いその後」