- ロシアでは一連の革命の結果、帝政から臨時政府期を経て世界初の社会主義政権が誕生した。
- ロマノフ王朝を倒した二月革命はブルジョア層が主導し、臨時政府を成立させた。
- レーニンの指導するボリシェヴィキが十月革命を起こし、臨時政府を打倒して社会主義政権を樹立した。
年号
1917年2月~11月
ロシア革命の解説
背景
1905年1月、日露戦争のための軍需工場で働いていた労働者が待遇改善を求めて司祭ガボンの指導の下、ツァーリ(皇帝)であるニコライ二世の居住する冬宮に向かって請願行進を行いました。しかし、軍は武力でこの運動を弾圧します。血の日曜日事件と呼ばれるこの事件により、民衆のツァーリに対する信頼は地に墜ち、資本家ですら労働者に同情的な立場をとりました。 一方で戦況も芳しくなく、民衆は戦争集結を望むようになりました。こうした厭戦模様を背景に6月戦艦ポチョムキン号の反乱が発生、オデッサでも民衆が蜂起したことで政府は戦争続行を諦め、ポーツマス条約を締結します。 戦後も革命的な動きは続き、10月に全国鉄道ゼネストが発生し、一般労働者や市民もそれに追随しました。ポーツマス条約締結時の全権大使でもあった自由主義的政治家ウィッテはニコライ2世に迫って市民的自由と立法議会(ドゥーマ)の開設を約す「十月宣言」を出させることに成功します。労働者側はさらなる改革を要求し、このころ各地で組織されていたソビエト(労働者の代表機関)を軸に活動を続けますが、資本家は「十月宣言」に満足して政府支援に回ります。12月には多くの活動家が逮捕されるなど弾圧が続き、革命の機運は頓挫しました。 事実上の首相となったウィッテのもとで憲法が制定され、国会(ドゥーマ)が開かれますが、まもなくウィッテは保守派と対立して失脚し、保守派のストルイピンが首相となります。ストルイピンは革命勢力を弾圧すると共に国会(ドゥーマ)を政府に協力的なものに強引につくりかえ、革命は完全に終了します。 以上の動きを第一次ロシア革命と呼び、広義のロシア革命に含めることがあります。
二月革命
1917年2月、第一次世界大戦で疲弊していたロシア帝国の首都ペトログラードでは食料難、燃料難が特に深刻であり、かつ多くの労働者と兵士がいました。2月23日、労働者によるストライキとデモ行進が発生し、全市に拡大します。初めはこれを鎮圧するために動員された兵士たちも反乱を起こし、労働者と一緒になって政治犯を釈放させるなどの行動をとります。 一方、国会(ドゥーマ)はこの事態を受けて臨時政府を樹立し、もはや収拾不能としてニコライ2世に退位を迫り、成功させます。こうしてロマノフ王朝は終焉しました。これが二月革命です。
臨時政府とソビエト
二月革命はひとつには労働者・兵士の革命であり、もうひとつにはブルジョアジーの革命であると言えます。労働者と兵士は最終的にソビエトに忠誠を誓い、官吏と将校は臨時政府に忠誠を誓うという二重権力の状態になりました。そこへ1917年4月、革命家レーニンが亡命先のスイスから帰国し、「すべての権力をソビエトに」と主張する「四月テーゼ」を発表します。第1回全ロシア=ソビエト会議非主流派ボリシェヴィキはこれに賛同して活動を開始しますが、主流派のメンシェヴィキとエスエルはこれに反対し、臨時政府側につきます。7月、ボリシェヴィキが労働者と兵士の反臨時政府デモを実施すると臨時政府は武力を用いて弾圧し、指導者を逮捕しようとしたのでレーニンは再び国外に逃れます。 8月、今度は最高軍司令官コルニーコフが反乱を起こします。首都への進撃に対し、臨時政府はソビエトが中心となって迎撃しますがその中核を担っていたのはボリシェヴィキでした。結果、鎮圧に成功したことでボリシェヴィキの発言力は増し、レーニンも帰国します。
十月革命
10月、レーニン指導下のボリシェヴィキは武装蜂起し、臨時政府を倒して十月革命を成功させました。彼らは更に第2回全ロシア=ソビエト会議を開催し、レーニンの提案である「平和についての布告」と「土地についての布告」を可決させました。 「平和についての布告」は第一次世界大戦の交戦国に対し、無併合・無賠償による即時平和、秘密条約の破棄、秘密外交の否定、民族自決の原則を守ることを呼びかけています。「土地についての布告」は地主の土地の没収を宣言したものです。 その後、10月末に臨時政府の残存勢力が首都に迫りますが激戦の末撃退に成功し、十月革命は完全な勝利を収めました。
一問一答
Q.レーニンが臨時政府とソビエトの二重権力構造を解消するために発表したのはなにか。 A.四月テーゼ
参考
平凡社「世界大百科事典 第2版」 日本文芸社「面白いほどよくわかる世界史」