日比谷焼き討ち事件の解説

  • 日露戦争後の講和条約が原因で起きた暴動事件。
  • 賠償金がもらえなかったことに起因する。
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日露戦争について

明治37(1904)年に日露戦争が勃発しました。日本軍はロシアの誇るバルチック艦隊を破るなど相次ぐ勝利を重ねました。さらにロシア国内では皇帝に対する国民の不満が高まり、国内の情勢が不安定になり戦争を継続する事が厳しくなりました。一方、日本も勝ち進めてはいたものの、戦争に対して多額の国家予算を投入したために経済状況が苦しくなり、両国で講和をすることになりました。

戦後処理について

戦争が終わると両国間で講和条約を結びます。通常は戦勝国の国内に敗戦国側が出向いて講和をしますので、日清戦争の時は日本が勝利して山口県の下関で下関条約が結ばれました。しかし日露戦争の場合は一方の国が圧勝して降参させるまでには至りませんでした。そのためアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領が仲裁に入り、アメリカ東部のポーツマスにて講和条約が結ばれたのです。また、戦勝国が賠償金を受け取ることが慣例でしたが、この講和条約では賠償金についてはどちらの国も払わないこととなっていました。

賠償金が得られると思ったからこそ・・・。

 国民は戦時中、経済が悪化しても戦争が終われば日清戦争の時のように賠償金が手に入るという一心で乗り越えてきました。にもかかわらず、その賠償金が得られないという講和内容だったため、不満が爆発し日比谷公園にて講和条約に反対する集会を開き、これが暴動に発展し、焼き討ち事件となったのです。

参考

浜島書店『新詳日本史』

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