中大兄皇子について

  • のちに天智天皇となって中央集権化をおしすすめた。
  • 百済国救済のため唐・新羅と戦ったが大敗し、大津宮へ遷都した。
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「大兄」皇子って?

中大兄皇子はのちの天智天皇になる人の即位前の呼び名です。父親は舒明天皇、母親は皇極天皇で、両親とも天皇であるサラブレッドです。もちろん有力な皇位継承者候補でした。当時、有力な皇位継承候補者に「大兄」の称号を与えていたと考えられ、敏達天皇の子に押坂彦人大兄皇子、聖徳太子の長男に山背大兄王、などがいます。舒明天皇の子には蘇我馬子の孫にあたる古人大兄皇子と、皇族の母親を持つ中大兄皇子がいました。どちらも有力な皇位継承者でしたが、蘇我氏が政権を握っている中、長男の古人大兄皇子のほうが立場が有利だったのかもしれません。そんななか中大兄皇子が起こしたのが乙巳の変です。

乙巳の変

645年、中大兄皇子は宮中の儀式の場で蘇我入鹿を殺害しました。これにより蘇我氏の勢力は一気に弱まり、蘇我氏という後見を失った古人大兄皇子の勢力も同時に衰えました。入鹿を殺害した後、中大兄皇子は政権を握り、政治改革を行ないました。これが「大化の改新」です。それまで認められていた私有地は公地公民制により全て国家のものとされ、中央集権化が図られました。

戸籍の作成

公地公民制により国家の物となった土地は国民に生きている間貸し与えられます。そのため正確な国民の人数や年齢を把握しなければなりません。このため、日本で初めて戸籍が作られました(庚午年籍)。

白村江の敗戦

663年、唐・新羅連合軍に滅ぼされた百済の救援のために中大兄は軍を派遣しましたが、大敗を喫しました(白村江の戦い)。この戦いのあと、667年に近江大津宮へと遷都しました。これは琵琶湖に面した大津は唐軍が攻め込んできても動きが取れやすいような地形だったからと考えられます。

参考文献

浜島書店『新詳日本史』

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