桜田門外の変の解説

  • 1860年に井伊直弼が暗殺された事件。
  • 開国に反対した攘夷派を安政の大獄で処罰したことに対する反発が原因だった。
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桜田門外の変とは

桜田門外の変は1860年3月3日、上巳の節句(現在のひな祭り)のため江戸城へ登城しようとした大老の井伊直弼が、江戸城の桜田門の前で浪士達に暗殺された事件です。

なぜ殺されたのか?

1853年にペリーが黒船を伴って来日し開国を求めました。日本は江戸時代初期に鎖国して以来、200年以上にわたってオランダ・中国・朝鮮以外とは交易をしていませんでしたので、天皇や貴族たちは開国に反対しました。しかし、幕府側は米国側の圧力にあらがう事ができず、天皇の許しを得ないままに和親条約で開国し、更に修好通商条約を締結して交易に踏み切りました。しかも内容は関税自主権が無いなど自国に不利な不平等条約でした。これに対し、攘夷派の人々が幕府を激しく非難しました。そのため幕府は次々と攘夷派を処罰して批判を封じ込めようとしました(安政の大獄)。この様な強硬な推し進め方がより大きな反発を招き、大老である井伊直弼が暗殺されるという前代未聞の事件に発展したのです。

流れを抑えておくのが大切

順番と流れを覚えておきましょう。幕府が修好通商条約を結んだ(1858)→各地の攘夷派の武士達が幕府を批判→安政の大獄(1858~1859)→桜田門外の変(1860)です。理由と流れを覚えておくと年号も入りやすいですよ。

参考

浜島書店『新詳日本史』

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