「無名草子:清少納言(すべて、あまりになりぬる人の)」の現代語訳になります。学校の授業の予習復習にご活用ください。
「無名草子:清少納言(すべて、あまりになりぬる人の)」の現代語訳
「すべて、あまりになりぬる人の、そのままにて侍はべるためし、ありがたきわざにこそあめれ。
「総じて、あまりにも度が過ぎてしまった人が、そのまま(の状態)でございます例は、めったにないことのようだ。
檜垣ひがきの子、清少納言は、一条院の位の御時、中関白なかのくわんばく、世をしらせ給たまひける初め、
檜垣の子の、清少納言は、一条天皇が帝位についていらっしゃった時、中関白が、世の政治をお執りになっていた当初に、
皇太后宮くわうたいこうぐうの時めかせ給ふ盛りに候さぶらひ給ひて、人より優なる者と思おぼし召されたりけるほどのことどもは、
皇太后宮(定子)が(一条天皇の)ご寵愛を受けていらっしゃる全盛期にお仕え申し上げなさって、(定子が清少納言を)ほかの女房より優れた者とお思いになっていた時のことなどは、
枕草子まくらのさうしといふものに、自ら書き表して侍れば、細かに申すに及ばず。
『枕草子』という作品に、自分で書き表しておりますので、(ここで私が)詳しく申すまでのことはない。
歌詠みの方かたこそ、元輔もとすけが女むすめにて、さばかりなりけるほどよりは、優れざりけるとかやとおぼゆる。
歌を詠むという方面では、(清原)元輔の娘で、それほど(名高い歌人の娘であるほど)であったわりには、優れていなかったのではないかと思われる。
後拾遺ごしふゐなどにも、むげに少なう入りて侍るめり。
『後拾遺和歌集』などにも、ひどく少なく入っているようです。
自らも思ひ知りて、申し請ひて、さやうのことには、交じり侍らざりけるにや。さらでは、いといみじかりけるものにこそあめれ。
(清少納言は)自分でも(歌才の乏しいのを)よく分かっていて、(定子に)お願い申し上げて、そのようなこと(歌を詠むような場)には、加わらなかったのでしょうか。そうでなくては、(『後拾遺和歌集』への入集が)極端に少ないように思われます。
その枕草子こそ、心のほど見えて、いとをかしう侍れ。
その『枕草子』こそ、(清少納言の)心構えが表れていて、とても興味深くございます。
さばかりをかしくも、あはれにも、いみじくも、めでたくもあることども、残らず書き記したる中に、
あれほど趣深くもあり、しみじみとした風情もあり、すばらしくもあり、りっぱでもある(宮廷生活における)ことの数々を、残らず書き記してある中に、
宮のめでたく盛りに、時めかせ給ひしことばかりを、身の毛も立つばかり書き出いでて、
皇太后宮(定子)がすばらしく(栄華の)盛りにあって、(一条天皇の)ご寵愛を受けていらっしゃったことだけを、恐ろしいほどにまざまざと書き表して、
関白殿失うせさせ給ひ、内大臣うちのおとど流され給ひなどせしほどの衰へをば、かけても言ひ出でぬほどの、
(定子の父の)関白殿がお亡くなりになり、(兄の)内大臣が流され(太宰権師として左遷され)なさるなどした頃の(一族の)衰退(のさま)を、少しも口に出さないほどの、
いみじき心ばせなりけむ人の、はかばかしきよすがなどもなかりけるにや、
すばらしい(行き届いた)心配りをしたような人が、(晩年は)しっかりとした縁者などもいなかったのでしょうか、
乳母めのとの子なりける者に具して、遥はるかなる田舎にまかりて住みけるに、
乳母の子であった者に連れ立って行って、遠い田舎に下って住んでいたが、
襖あをなどいふもの干しに、外とに出づとて、『昔の直衣なほし姿こそ忘られね。』と独りごちけるを、
襖などというものを干すために、外に出ようとして、『昔の(宮廷生活で見た)直衣姿が忘れられない。』と独りごとを言ったのを、(ある人が)見ましたところ、
見侍りければ、あやしの衣きぬ着て、つづりといふもの帽子にして侍りけるこそ、いとあはれなれ。
粗末な衣服を着て、つづりという(布切れを継ぎ合わせた)ものを帽子にしておりましたのは、とても気の毒だった。
まことに、いかに昔恋しかりけむ。」
本当に、(清少納言は)どんなにか昔が恋しかったことだろう。」
脚注
- 檜垣 十世紀頃九州に住んでいたという女性歌人。
- 一条院 一条天皇。〔九八〇―一〇一一〕
- 元輔 清原きよはらの元輔〔九〇八―九九〇〕。清少納言の父で、『後撰ごせん和歌集』撰者せんじゃの一人。
- 後拾遺 『後拾遺和歌集』。清少納言の歌は二首入る。
- 内大臣 定子の兄、藤原伊周これちか。
- 襖 庶民が冬に着用した衣服の一種。
- 直衣 貴族の平常服。
出典
清少納言せいせうなごん
参考
「精選古典B(古文編)」東京書籍
「教科書ガイド精選古典B(古文編)東京書籍版 2部」あすとろ出版