ソビエト連邦の成立から崩壊まで

ソビエト連邦

画像引用元 : Wikimedia Commons ソビエト社会主義共和国連邦正射図(国旗版)

  • 史上初の社会主義国家であり、国際共産主義運動の中心となって資本主義国のアメリカ合衆国に対抗した。
  • 計画経済を採用し、5カ年計画をもって重工業を中心とした工業化、農業の集団化を進めた。
  • 軍事予算の拡大等により経済危機寸前となり、改革を進めたが一種の自己批判化し、崩壊につながった。
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年号

1922~1991年

ソビエト連邦の解説

ソビエト連邦の成立

十月革命後、革命派の赤軍と反革命派の白軍との間でロシア内戦が勃発し、最終的に赤軍が勝利しました。それを受けて1922年ロシア、ウクライナ、白ロシアの3つのソビエト社会主義共和国に加え、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国が連合し、ソビエト連邦が誕生しました。

計画経済の推進

当初の指導者であったレーニンの死後、権力闘争を経てヨシフ=スターリンが台頭します。スターリンは計画経済を採用し、1928年からの第一次五カ年計画によって重工業の発展、農業の全面的集団化を目指しました。これらの目標は強権的に推し進められ、ソ連は大きく経済成長を遂げることとなります。個人農はほぼ全て準国家機関的な集団農場コルホーズ、もしくは国営農場ソフホーズ(ソホーズ)に置き換えられ、抵抗する農民は逮捕されて辺境の収容所へ送られ、特殊なコルホーズで働かされました。

スターリン独裁体制

1934年のキーロフ暗殺事件を旧党内反対派指導者の仕業であるとし、スターリンは彼らを処刑しました。ここからスターリンによる「大粛清(大テロル)」と呼ばれる大規模な政治弾圧が始まりました。スターリン派か否かに関わらず、多くの政治家、軍人、知識人がスパイ容疑や様々な陰謀を計画した容疑で死刑となりました。その粛清の嵐は有力者だけでなく一般人や外国人にまで及び、1938年頃までに70万人近くが死刑となり、約63万人が強制収容所や刑務所に送られたという記録もあります。結果としてスターリンへの権力集中、個人崇拝が始まることとなり、事実上ソ連はスターリンの独裁体制となりました。

第二次世界大戦

1939年ソ連はナチス・ドイツとの間に独ソ不可侵条約を結び、1940年には日本と中立条約を結びました。これらの条約により、1939年に勃発した第二次世界大戦に対する安全保障が成立したかと思われましたが、1941年6月ナチス・ドイツが一方的に不可侵条約を破って奇襲攻撃を行い、独ソ戦争が開始されます。こうしてソ連も第二次世界大戦に参戦することになりました。 奇襲されたソ連軍は大敗し、ヨーロッパ・ロシアの大半を占領されてしまいますが、冬将軍に助けられてモスクワ郊外でドイツ軍撃退に成功し、反撃に転じます。1943年以降はソ連軍優勢となり、東ヨーロッパを解放しながらドイツ軍を追跡、1945年4月にはベルリンに入場し、5月2日に降伏させました。そののち、アメリカ合衆国の求めでヤルタ会談に基づいて8月8日に日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告し、満州の関東軍を攻撃しました。このソ連の参戦が日本のポツダム宣言受諾の決断を決定づける要因のひとつになりました。

冷戦

第二次世界大戦後、領土を拡大し、東ヨーロッパ諸国や北朝鮮等を勢力下に置いたソ連は社会主義国の中心として資本主義国の中心となったアメリカ合衆国と対立することになります。この状態を冷戦といいます。両国は直接戦果を交えることはありませんでしたが各地で代理戦争が発生するなど世界的に緊張状態にありました。そんななか、1953年にスターリンは死去します。

スターリンの死後

権力闘争の後、フルシチョフが次代の指導者として台頭します。彼はスターリンを批判し、多くの人々の名誉を回復させました。また、平和共存(デタント)を唱えて1959年に訪米するなど政策の方向転換を図ります。しかし、この方針は社会主義の同胞である中華人民共和国との対立を招き、1962年のキューバ危機ではアメリカ合衆国に譲歩せざるを得ないなど外交面で不信を招きました。また、農業政策も失敗に終わり、内政面でも非難されることとなり、1964年に失脚します。 次に権力を握ったのはブレジネフをトップとする人々でした。彼らは福祉向上につとめると共にこれ以上の改革がおきないよう国内の改革派勢力を解体、弾圧しました。こうして国内は安定しましたが、経済成長は鈍化し、政治腐敗も発生し、改革派弾圧による閉塞感も広がりました。また、改革派追放により現実のソ連社会の情報が資本主義世界に伝わり、イメージの低下をもたらしました。更に国際的な影響力を維持しようと1979年にアフガニスタンの親ソ政権擁立のために出兵しますが反政府ゲリラとの戦闘は泥沼化し、アメリカ合衆国との関係も再び悪化します。

ペレストロイカ

1982年にブレジネフは死去し、その後しばらくしてゴルバチョフがトップに立ちます。彼は社会主義体制の刷新と改革を掲げてペレストロイカ(改革)を推し進め、同時にグラスノチ(情報公開)を行うことで歴史の見直しにもつとめました。グラスノチは校閲の廃止や自由言論といった方向にも進展し、国民の民主化要求が拡大する結果となります。それに応えるようにゴルバチョフはソ連共産党による一党独裁の放棄とともに自由選挙を実施し、大統領制を導入しました。 しかし、一連の改革により強権的な押さえつけが無くなったために国内に潜在的に抱えていた民族問題が表面化します。1988年にはナゴルノ・カラバフ自治州を巡ってアルメニアとアゼルバイジャンが大規模な紛争を行い、1990年にはバルト3国が相次いで独立を宣言するなど民族運動は各地で活発化しました。 外交面では1987年にはアメリカ合衆国と中距離核戦力全廃条約を締結、1988年からはアフガニスタンからの撤兵を開始します。また、1988年の新ベオグラード宣言の中でゴルバチョフは東ヨーロッパへの政治的不干渉を表明し、結果として相次いで民主化が達成されました。こうしてソ連自体も含む社会主義諸国の民主化により、冷戦構造は事実上崩壊、1989年12月のゴルバチョフとアメリカ合衆国大統領ジョージ=ブッシュのマルタ会談において正式に冷戦の集結が宣言されました。

ソビエト連邦の崩壊

連邦内の共和国における自由選挙による大統領の選出と民族運動と活発化により、各共和国は自分たちの主権を主張し始めました。中心となったのはエリツィン大統領を擁するロシア共和国やウクライナ共和国でした。こうした動きに危機感を抱いた保守派は1991年8月にクーデターを起こしますが失敗に終わります。クーデターを起こしたのはソ連共産党幹部でゴルバチョフの直属の部下であったためゴルバチョフの権威は失墜しました。その後、バルト3国は独立、更にウクライナ共和国が独立を宣言し、ロシア共和国がそれを承認、次いでロシア、ウクライナ、白ロシアが連邦を離脱して独立国家共同体(CIS)を形成し、残る国々も加わりました。ここに至り、12月25日ゴルバチョフはソ連大統領を辞任、翌日に最高会議も連邦の解体を宣言し、ソビエト連邦は崩壊しました。

一問一答

Q.ゴルバチョフが推進した情報の自由化のことをなんというか。 A.グラスノチ

参考

平凡社「世界大百科事典 第2版」

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