「風姿花伝:年来稽古条々(ねんらいけいこでうでう)」の現代語訳になります。学校の授業の予習復習にご活用ください。
「風姿花伝:年来稽古条々(ねんらいけいこでうでう)」の現代語訳
十七、八より
十七、八歳から
このころはまた、あまりの大事にて、稽古多からず。
この時期はやはり、あまりの難しい時期なので、稽古が限られる。
まづ、声変はりぬれば、第一の花失うせたり。
まず、声が変わってしまうので、第一の「花」(声の魅力)がなくなってしまう。
体たいも腰高になれば、かかり失せて、過ぎしころの、声も盛りに、花やかに、易かりし時分の移りに、手立てはたと変はりぬれば、気を失ふ。
体も腰高になるので、(表現からにじみ出る)風情や情趣もなくなって、過ぎた頃(少年期)の、声も盛りで、(姿も)華やかで、(すべてが)容易だった頃からの転換期に(なり)、能の演じ方が急に変わってしまうので、意欲を失う。
結句けつく、見物衆けんぶつしゆもをかしげなる気色見えぬれば、恥づかしさと申し、かれこれ、ここにて退屈するなり。
その上、見物人(観客)たちも滑稽だとおかしがっている様子を見せてしまうので、恥ずかしさといい、あれやこれや(が重なって)、この段階で意欲を失ってしまうのだ。
このころの稽古には、ただ、指を指して人に笑はるるとも、それをば顧みず、内にては、声の届とづかんずる調子にて、宵、暁の声を使ひ、心中しんぢゆうには願力を起こして、一期いちごの境ここなりと、生涯にかけて能を捨てぬよりほかは、稽古あるべからず。
この頃の稽古では、ただもう、指を指して人に笑われるとしても、それを気にせず、内々での稽古では、声の届くような(範囲の)調子(音域)で、夕方や、明け方の(それぞれに応じた)発声で、心の中では願を立て力を奮い起こして、一生の分かれ目は今だと、生涯をかけて能を捨てずにいるよりほかには、稽古のやりようはあるはずがない。
ここにて捨つれば、そのまま能は止まるべし。
ここで(能を)捨ててしまうと、そのまま能(の上達)は止まってしまうだろう。
二十四、五
二十四、五歳
このころ、一期の芸能の定まる初めなり。
この頃は、一生の芸が確立する初め(の段階)である。
さるほどに、稽古の境なり。
したがって、稽古の転換期である。
声もすでに直り、体も定まる時分なり。
声もすっかり回復し、体つきも固まる時期である。
されば、この道に二つの果報あり。
ところで、この(能の)道には二つの好条件がある。
声と身形みなりなり。
(それは)声と姿である。
これ二つは、この時分に定まるなり。
この二つは、この頃に定まるものである。
年盛としざかりに向かふ芸能の生ずるところなり。
全盛期に向かう芸が生まれるところなのである。
さるほどに、よそ目にも、「すは、上手出いで来たり。」とて、人も目に立つるなり。
そうこうしているうちに(果報が備わるので)、観客の目にも(分かり)、「ほら、上手(な役者)が出てきた。」といって、観客も注目するのである。
もと名人などなれども、当座たうざの花にめづらしくして、立ち合ひ勝負にも一旦勝つ時は、人も思ひ上げ、主ぬしも上手と思ひ染しむるなり。
(競演する相手が)かつての名高い人などであっても、その場(だけ)の(一時的な)「花」で目新しいので、競演して芸の優劣を争う勝負にも一時的に勝つ(ことがあるが、そういう)時は、他人も実力以上に評価し、本人も(自分は)上手なのだと思い込むのである。
これ、かへすがへす主のため仇あたなり。
これは、本当に本人のためにはよくないことである。
これも、まことの花にはあらず。
これも、「真実の花」ではない。
年の盛りと、見る人の一旦の心のめづらしき花なり。
年齢が若い盛りであることと、観客の一時の心が新鮮に感じる(ことによる)「花」である。
まことの目利きは見分くべし。
本当の目利きは見分けるはずだ。
このころの花こそ初心と申すころなるを、極めたるやうに主の思ひて、はや申楽さるがくに側そばみたる輪説りんぜつをし、至りたる風体ふうていをすること、あさましきことなり。
この頃の「花」こそ初心(初歩の未熟な段階)と申す時期であるのに、(もう)極めたかのように本人が思って、早くも能(能楽)の正道から外れる自分勝手な意見を言い、大成した名手のような演じ方をすることは、あきれることである。
たとひ、人も褒め、名人などに勝つとも、これは一旦めづらしき花なりと思ひ悟りて、いよいよ物まねをもすぐにし定め、名を得たらん人に事を細かに問ひて、稽古をいや増しにすべし。
たとえ、人も褒め、名高い人などに勝つとしても、これは一時的に目新しい(ことによる)「花」だと思い悟って、いっそう基本とされる写実的な演技をも正しく型通りに習い、名声を得ているような人に(芸の)ことをこまごまと質問して、稽古をよりいっそうしなければならない。
されば、時分の花をまことの花と知る心が、真実しんじちの花になほ遠ざかる心なり。
そういうわけで、「一時的な花」を「真実の花」と思い込む心が、「真実の花」にいっそう遠ざかる心なのだ。
ただ、人ごとに、この時分の花に迷ひて、やがて花の失するをも知らず。
ただもう、誰もみな、この「一時的な花」に惑わされて、すぐに(この)「花」が失われることも知らない(でいる)。
初心と申すはこのころのことなり。
初心と申すのはこの段階のことなのである。
脚注
- 結句 その上。
- 宵、暁の声を使ひ 夕方や明け方のそれぞれに応じた発声で。
- 申楽 猿楽。ここでは能(能楽)を指す。
出典
年来稽古条々ねんらいけいこでうでう
参考
「精選古典B(古文編)」東京書籍
「教科書ガイド精選古典B(古文編)東京書籍版 2部」あすとろ出版