「蜻蛉日記:あまぐもにそる鷹・鷹を放つ」の現代語訳になります。学校の授業の予習復習にご活用ください。
「蜻蛉日記:あまぐもにそる鷹・鷹を放つ」の現代語訳
途絶えがちとなった夫兼家かねいえの訪れが、いっそう長い絶え間を置くようになり、心も通わなくなってしまった天禄てんろく元年〔九七〇〕六月のこと。
つくづくと思ひ続くることは、なほいかで心と疾とく死にもしにしがなと思ふよりほかのこともなきを、ただこの一人ある人を思ふにぞ、いと悲しき。
つくづくと思い続けることは、やはり何とかして自らの意思で早く死んでしまいたいと願うよりほかに何もないのだが、ただこの一人いる子(=道綱)のことを考えると、ひどく悲しくなる。
人となして、後ろやすからむ妻めなどに預けてこそ、死にも心やすからむとは思ひしか、
一人前に育てて、安心して任せられるような妻などと結婚させれば、死ぬのも気が楽だろうと思っていたのだが、
いかなる心地してさすらへむずらむと思ふに、なほいと死に難し。
(今死んだら、道綱は)どんな(に心細い)気持ちであてどのない暮らしをすることになるだろうと思うと、やはりとても死にきれない。
「いかがはせむ。かたちを変へて、世を思ひ離るやとこころみむ。」と語らへば、
「どうしようか。尼になって、この世のことを思い切れるかどうか試してみよう。」と(道綱にしんみり)語ると、
まだ深くもあらぬなれど、いみじうさくりもよよと泣きて、「さなり給たまはば、まろも法師になりてこそあらめ。何せむにかは世にもまじろはむ。」とて、
まだ(子どもで)たいした分別もないようなのに、ひどくしゃくりあげておいおいと泣いて、「(母上が)そのように(尼に)おなりになったら、私も法師になって暮らしましょう。何の生きがいがあって世間の人たちの中に立ち交じって暮らしましょうか。」と言って、
いみじくよよと泣けば、我もえせきあへねど、いみじさに、たはぶれに言ひなさむとて、「さて鷹飼はでは、いかがし給はむずる。」と言ひたれば、
ひどくおいおいと声を立てて泣くので、私も涙をこらえきれないけれども、あまりの切なさに、冗談に紛らわしてしまおうと思って、「では(法師になって)鷹が飼えなくなったら、どうなさるおつもりなの。」と言ったところ、
やをら立ち走りて、しすゑたる鷹を握り放ちつ。
(道綱は)そっと立って駆け出して行って、小屋につなぎとめてある鷹(の足)をつかみ(空へ)放してしまった。
見る人も涙せきあへず、まして、日暮らし悲し。
見ている侍女も涙をこらえきれず、まして、(私は)一日中悲しかった。
心地におぼゆるやう、
心に思うことは、
あらそへば思ひにわぶるあまぐもにまづそる鷹ぞ悲しかりける
出家を巡って母子で言い争うと、尼になろうかと思案している私よりも先に、わが子が大切な鷹を空に放って頭を剃って法師になる決意を示したのは、いじらしくも悲しいことだ。
とぞ。
ということである。
出典
あまぐもにそる鷹たか
参考
「精選古典B(古文編)」東京書籍
「教科書ガイド精選古典B(古文編)東京書籍版 1部」あすとろ出版