内儀機嫌よく、「何をいたしますも、身を助かるためでござります。大事の若子さまを預かりましても、何とござりましよ。私はなるほど御奉公の望み。」と言へば、
女房は機嫌よく、「何をいたしますのも、この身を助けるためでございます。大切な若子さまをお預かりしても、私でうまく務まるでしょうか。私はできるだけ御奉公したい望みです。」と言うと、
男にはものを言はず、「少しも早くあなたへ。」と、隣の硯すずり借つて来て、一年の手形を極め、残らず銀渡して、かの嚊手ばしかく、
(人置きの嚊は)亭主にものも言わず、「少しでも早く先さまへ。」と、隣家の硯を借りてきて、一年契約の証文を作成し、残らず(前払いの)給金を渡して、その嚊は手早く、
「後といふも同じこと、これは世界がこのとほりの御定め。」と、
「後でというのも同じこと(だから、今いただいておきましょう)、これは世間でこのように決まっている約束事ですから。」と、
「八十五匁数三十七」と書き付けのあるうち、八匁五分ごふん、厘りんと取りて、
「八十五匁数三十七」と書き付けのある(銀包みの)中から、八匁五分を、一厘の違いもなくきちんと受け取って、
「さあ、お乳母どの、身ごしらへまでないこと。」と連れ行く時、
「さあ、お乳母殿、身支度するまでもないこと。」と連れて行く時、
男も涙、女は赤面して、「おまん、さらばよ。母かかは旦那さまへ行きて、正月に来て会ふぞよ。」と言ひ捨てて、何やら両隣へ頼みて、また泣きける。
男も涙(を流し)、女は泣きはらして顔を赤くして、「おまんよ、さようなら。母さんは旦那さまの所へ(奉公に)行って、正月には帰って来て会うからね。」と言い捨てて、何やら両隣の家に頼んで、また泣いていた。
人置きは心強く、「親はなけれど子は育つ。打ち殺しても、死なぬものは死にませぬぞ。御亭さま、さらば。」とばかりに出て行く。
人置きの嚊は気強く、「親はなくても子は育つ。打ち殺しても、死なないものは死にませんよ。ご亭主さま、さようなら。」とだけ言って出て行く。
この上かみさま世を観じ、「わが孫の不憫ふびんなも、人の子の乳離ちばなれしは、かはゆや。」と見返り給へば、
この(雇い主の)ご隠居様は浮世の無常を思い、「私の孫もかわいそうだが、人の子の乳離れするのも、かわいそうなことよ。」と振り返って見なさると、
「それは銀が敵、あの娘は死に次第。」と、その母親が聞くもかまはず、連れ行きける。
「それは金が敵(のこの世のせい)、あの娘は死んだらそれまでのこと。」と、その母親が聞くのもかまわず(に言ってのけ)、(その母親を)連れて行った。
ほどなう大晦日の暮れ方に、この男無常起こり、我大分だいぶんの譲り物を取りながら、胸算用の悪あしきゆゑ、江戸を立ちのき、伏見ふしみの里に住みけるも、女房どもが情けゆゑぞかし。
間もなく大晦日の暮れ方になり、この男は世の中をはかなく思う気持ちが起こり、自分は多額の親の遺産を譲り受けながら、心積もりが悪かったため(身代をつぶして)、江戸を立ち退き、(今この)伏見の里に住むようになったのも、女房の縁によってのことだったなあ。
大福おほぶくばかり祝うてなりとも、あらたまの春に二人会ふこそ楽しみなれ。
大福茶だけで祝うのであっても、新春を(夫婦)二人で迎えることこそが楽しみというものだ。
心ざしのあはれや、羹箸かんばし二膳買ひ置きしが、棚の端に見えけるを取りて、「一膳はいらぬ正月よ。」とへし折りて、鍋の下へぞ焚きける。
(女房の)心根がいじらしいことよ、雑煮用の箸を二膳買っておいたのが、棚の端に見えていたのを取って、「一膳はいらない正月だ。」とへし折って、鍋の下で燃やしてしまった。
夜更けて、この子泣きやまねば、隣の嚊たち訪とひ寄りて、摺すり粉に地黄煎ぢわうせん入れて炊き返し、竹の管にて飲ますことを教へ、「はや一日の間に、思ひなしか、おとがひが痩せた。」と言ふ。
夜も更けて、この子が泣きやまないので、隣の女房たちが訪ねて来て、摺り粉に地黄煎を入れて炊き返し、竹の管で飲ませることを教え、「早くも一日のうちに、気のせいか、(赤子の)顎のあたりが痩せた。」と言う。
この男、「さても是非なし。」と心腹こころばら立つて、手に持つたる火箸を庭へ投げける。
この男は、「ほんとにまあどうにもならない。」と自分で自分に腹が立って、手に持っていた火箸を土間へ投げつけた。
「お亭さまはいとしや、お内儀さまは果報。先の旦那どのが、きれいなる女房を使ふことが好きぢや。ことに、この中ぢゆうお果てなされた奥さまに似たところがある。ほんに、後ろ付きのしをらしきところがそのまま。」と言へば、
「ご亭主さまはお気の毒、お内儀さまはお幸せ。先方の旦那どのが、きれいな女子衆を使うことが好きじゃ。ことに、(こちらのお内儀は)この間亡くなられた先方の奥さまに似たところがある。ほんとうに、後ろ姿のしおらしいところがそっくりそのまま。」と言うと、
この男聞きもあへず、「最前の銀はそのままあり。それを聞いてからは、たとへ命が果て次第。」と駆け出し行きて、女房取り返して、涙で年を取りける。
この男は最後まで聞かず、「さっきの銀貨はそっくりそのままある。それを聞いた以上は、たとえ命が果てようともかまわない。」と駆け出して行って、女房を取り返して、涙ながらに(親子三人で)新年を迎えた。
【巻三の三】
脚注
- 万日回向 一日参詣すれば万日参詣したことになると称して、特定の日に寺で営まれる法会。
- 分限 金持ち。銀五百貫目以上の財産を持つ者。
- 裸銀 紙に包んでいない銀貨。
- 敷革 毛皮の敷物。
- 新小判 流通するうちにすり切れて目方の減った小判に金を足し、鋳直したもの。「新直し小判」ともいう。
- 紙衾 外側が紙製の粗末な布団。
- 渇命 飢え渇いて命が危なくなること。
- 八十五匁 銀八十五匁。一年分の給金。
- 半季 半年ぎめの奉公。
- 譲り物 親の遺産。
- 大福 大福茶。若水(元旦にくむ井戸水)で茶を沸かし、塩漬けの梅などを入れて飲むもの。
- 羹箸 正月の雑煮に用いる柳の太箸。
- 摺り粉 米の粉。母乳の代用品。
- 地黄煎 麦のもやし、または米の胚芽の粉を煎り、水で練った飴あめ。古くは地黄(漢方の薬草の一種)の汁で練った。
出典
小判は寝姿の夢
参考
「精選古典B(古文編)」東京書籍
「教科書ガイド精選古典B(古文編)東京書籍版 1部」あすとろ出版