窓の紙松風を啜すすりて夜もすがら涼しきに、道の長手ながてにつかれ、うまく寝いねたり。
松風が(破れた)窓の障子紙をすすり泣くように吹き鳴らして夜通し涼しいうえに、長い旅の疲れで、(勝四郎は)ぐっすりと眠っていた。
五更の天そら明けゆくころ、現うつつなき心にもすずろに寒かりければ、衾ふすまかづかんと探る手に、何物にや、さやさやと音するに目さめぬ。
五更の空が(白々と)明けゆく頃、夢見心地にも何となく寒かったので、夜具を掛けようと探る手先に、何であろうか、さらさらと音がするので目が覚めた。
顔にひやひやと物のこぼるるを、雨や漏りぬるかと見れば、屋根は風にまくられてあれば、有明月ありあけづきのしらみて残りたるも見ゆ。
顔にひんやりと(冷たく)何かがこぼれてくるのを、雨が漏ったのかと見ると、屋根は風に吹き払われているので、有明の月がほの白く(空に)残っているのも見える。
家は扉ともあるやなし。
家は扉もあるかないか(分からないほど荒れ果てている)。
簀垣すがき朽ちくづれたる間ひまより、荻薄高をぎすすきく生ひ出でて、朝露うちこぼるるに、袖湿ひぢてしぼるばかりなり。
簀子の床が腐って崩れている隙間から、荻や薄が高く生え出ていて、(それから)朝露がこぼれ落ちるので、(勝四郎の)袖はびっちょり濡れて絞るほどであった。
壁には蔦葛延つたくずはひかかり、庭は葎むぐらに埋うづもれて、秋ならねども野らなる宿なりけり。
壁には蔦や葛がはいまつわり、庭は雑草に埋もれて、秋でもないのに(まるで古歌にある秋の)野辺のような(荒れ果てた)家であったよ。
さてしも臥したる妻はいづち行きけん、見えず。
それにしても(いっしょに)寝ていた妻はどこに行ってしまったのだろうか、姿も見えない。
狐などのしわざにやと思へば、かく荒れ果てぬれど、もと住みし家にたがはで、
狐などのしわざであろうかと思って見ると、こんなに荒れ果てているが、以前住んでいた家に相違なく、
広く造りなせし奥わたりより、端の方、稲倉いなぐらまで好みたるままのさまなり。
広々と造った奥の部屋の辺りから、端の方の、稲倉まで(自分の)気に入っていたままの様子である。
呆あきれて足の踏みどさへ忘れたるやうなりしが、
(勝四郎は)途方に暮れて自分が立っている所さえ分からないほどだったが、
つらつら思ふに、妻はすでに死まかりて、今は狐狸こりのすみかはりて、かく野らなる宿となりたれば、あやしき鬼ものの化けして、ありし形を見せつるにてぞあるべき。
よくよく考えてみると、妻は既にこの世を去り、今では狐狸が住み替わって、このように野原同然の(荒れ果てた)家となっているため、怪しいものが化けて、(妻の)生前の姿を見せたのであろう。
もしまた、我を慕ふ魂たまのかへり来たりて語りぬるものか。
あるいはまた、自分を慕う妻の霊魂が(あの世から)帰ってきて夫婦の語らいをしたのであろうか。
思ひしことのつゆたがはざりしよと、さらに涙さへ出でず。
(いずれにせよ)予想していたことと少しも違わなかったよと思うと、(あまりのことに)全く涙さえ出ない。
わが身ひとつはもとの身にしてと歩みめぐるに、昔閨房ふしどにてありし所の簀子すのこをはらひ、土を積みて塚とし、雨露を防ぐ設けもあり。
(昔のままなのは自分だけなのかと)「わが身ひとつはもとの身にして」と(いう古歌の気持ちをかみしめながら家の中を)歩き回っていると、昔は寝室であった所の床を取り払って、土を積んで塚としてあり、(そこには)雨露を防ぐ設備もある。
夜よべの霊はここもとよりやと恐ろしくもかつなつかし。
昨夜の亡霊はここから(現れたの)かと思うと恐ろしくもあり、また懐かしくもある。
水向けの具ものせし中に、木の端を削りたるに、那須野なすの紙のいたう古びて、文字もむら消えして所々見定め難き、正しく妻の筆の跡なり。
手向けの水を供える道具を設けた中に、(墓標代わりに)木片を削ったものに、那須野紙のたいそう古くなって、文字も所々消えて読み取りにくいのが(貼り付けてあるが)、(よくよく見れば)まさしく妻の筆跡である。
法名といふものも年月も記さで、三十一みそひと字に末期いまはの心を哀れにも述べたり。
戒名というものも(死去の)年月も書き記さないで、一首の歌に末期の心境を哀れにも述べてある。
さりともと思ふ心にはかられて世にも今日まで生ける命か
あなたは約束の秋に帰ってこなかったが、それでもいつかは帰ってきてくれると思う心に欺かれて、よくも今日という日までこの世に生きながらえてきたものよ。
ここに初めて妻の死したるを覚さとりて、大いに叫びて倒れ伏す。
ここに至って初めて妻の死んだことを知って、(勝四郎は)大声をあげて泣き伏した。
さりとて何の年何の月日に終はりしさへ知らぬあさましさよ。
それにしても、何年何月何日に死んだのかさえ分からない情けなさよ。
人は知りもやせんと、涙をとどめて立ち出づれば、日高くさし昇りぬ。
誰か知っているかもしれないと、涙を抑えて(外に)出ると、日が高く昇っていた。
勝四郎は、村の中でただ一人事情を知る漆間うるまの翁おきなを訪ねた。そして、翁から自分が都に上った翌年の八月十日に妻が亡くなった経緯をつぶさに聞く。翁は更に真間の手児女てこなの伝説を語って聞かせた。それは、多くの男から思いをかけられた手児女が、だれをも傷つけたくないために入水じゆすいしたというものであった。翁は、勝四郎の帰りをひたすら待ち続けていた宮木の心は、手児女にも勝って悲しかったであろうと言って涙ぐんだ。それを聞く勝四郎の悲しみは言葉に尽くせないものであった。
脚注
- 足利染めの絹 今の栃木県足利市付近で産した、絹の染め物。
- 鳥が鳴く 「東」の枕詞。あわせて鶏鳴の意を表す。
- 継橋 川に柱を立て、その上に板を継ぎ渡した橋。ここは、古歌で知られる真間の継橋を指す。
- 軒の標 家の目印。
- 御所の師 足利成氏方の軍勢。
- 総州 上総かずさと下総。
- 節刀使 正しくは節度使せつどし。朝敵征討の命を受けた武将。
- 馬の蹄尺地も間なし 馬の蹄に踏みにじられない所は少しもない。
- 漢宮の幻 漢の武帝が李り夫人の死後、反魂香はんごうこうを焚たくと、その面影が幻の中に 現れた故事を指す。
- たのむの秋 夫との再会を頼みにして待つ秋。陰暦八月一日の「田の実むの節句」に、夫の言葉を頼みとする意とを掛けた表現。
出典
浅茅あさぢが宿
参考
「精選古典B(古文編)」東京書籍
「教科書ガイド精選古典B(古文編)東京書籍版 1部」あすとろ出版