「雨月物語:浅茅が宿〜前編〜」の現代語訳(口語訳)

 勝四郎が都へ出かけて間もなく、関東は戦乱の巷ちまたとなってしまったが、宮木は元の所にとどまって、夫の帰りを待ち続けていた。一方、都で利益を得た勝四郎は、関東の様子を噂うわさに聞くとすぐに故郷へと向かった。だが、途中で盗賊に襲われ、また更に都に引き返す途中、近江国おうみのくに(今の滋賀県)で熱病に冒されてしまう。 幸い雀部の縁者の世話になることができたが、病が癒えた後も、引き留められるままその地に滞在し続けること、足掛け七年。やがて起こった畿内きないの戦乱を契機に、妻を見捨てた後悔の念に駆られて帰郷を決意した。勝四郎が真間に帰り着いたのは、寛正かんしょう二年〔一四六一〕五月のことであった。

 この時、日ははや西に沈みて、雨雲は落ちかかるばかりに闇くらけれど、
この時、日は既に西に沈んで、雨雲は今にも降ってきそうなほど(低く垂れ込めていて)暗かったけれども、

久しく住みなれし里なれば迷ふべうもあらじと、夏野分け行くに、
(勝四郎は、)長い間住み慣れた故郷であるから迷うはずもあるまいと、夏草の生い茂った野を分けて進んでいくと、

いにしへの継橋つぎはしも川瀬に落ちたれば、
昔(から有名な真間)の継橋も(朽ちて)川瀬に落ちているので、

げに駒の足音あおともせぬに、田畑は荒れたきままにすさみて旧もとの道もわからず、ありつる家居いへゐもなし。
ほんとうに(古歌にあるように)馬の足音も聞こえないうえに、田畑は荒れ放題に荒れ果てて昔の道も分からなくなり、(昔)あった人家も見当たらない。

たまたまここかしこに残る家に人の住むとは見ゆるもあれど、昔には似つつもあらね、
まれにあちらこちらに残る家に人が住んでいると見えるものもあるが、(それも)昔とは似ても似つかぬありさまなので、

いづれかわが住みし家ぞと立ち惑ふに、
(いったい)どれが自分の住んでいた家なのかと途方に暮れてたたずむと、

ここ二十歩ばかりを去りて、雷らいにくだかれし松の聳そびえて立てるが、雲間の星の光に見えたるを、
そこから二十歩ばかり(約三十六メートル)を隔てて、雷に砕かれた松がそびえ立っているのが、雲の間の星明りに見えているのを、

げにわが軒の標しるしこそ見えつると、まづうれしき心地して歩むに、家はもとに変はらであり。
確かにわが家の目印が見えたぞと、まずはうれしい気持ちがして歩いていくと、家は以前と変わらないで(そこに)ある。

人も住むと見えて、古戸の間すきより灯火ともしびの影もれてきらきらとするに、
人も住んでいると見えて、古い戸の隙間から灯火の光が漏れてきらきらとしているので、

他人ことひとや住む、もしその人やいますかと心さわがしく、門に立ちよりて咳しはぶきすれば、内にも早く聞きとりて、
ほかの人が住んでいるのか、(それとも)もしかすると妻の宮木が生きておられるのかと胸がどきどきして、門口に立ち寄ってせきばらいをすると、(家の)中でも耳ざとく(それを)聞きつけて、

「誰そ。」ととがむ。
「どなたですか。」と問いただす。

いたうねびたれど、正まさしく妻の声なるを聞きて、夢かと胸のみさわがれて、
ひどく老けているけれども、間違いなく妻の声であると聞いて、(勝四郎は)夢(ではなかろう)かと、ただもう自然と胸が高鳴って、

「我こそ帰り参りたり。変はらで独り浅茅が原に住みつることの不思議さよ。」と言ふを、
「私が帰ってきたのだよ。(昔と)変わらずにただ一人で(こんな)チガヤの生い茂っている荒れ果てた原に住んでいたとは(なんという)不思議なことよ。」と言う声を、

聞き知りたれば、やがて戸を開くるに、
(宮木は夫の声として)聞いて知っていたから、すぐに戸を開けたが、

いといたう黒く垢あかづきて、眼まみは落ち入りたるやうに、結げたる髪も背にかかりて、もとの人とも思はれず、夫をとこを見てものをも言はでさめざめと泣く。
(その宮木の姿は)たいそうひどく黒くあかにまみれて、目は落ちくぼんでいるようで、結い上げている髪も(乱れて)背中に落ちかかり、以前の(美しかった)妻とも思えないほど(の変わりよう)で、夫を見て口もきかずにさめざめと泣く。

 勝四郎も心くらみてしばしものをも聞こえざりしが、ややして言ふは、
勝四郎も(あまりのことに)気が動転してしばらくは口もきけなかったが、少したって言うには、

「今までかくおはすと思ひなば、など年月を過ぐすべき。いぬる年、京にありつる日、鎌倉の兵乱ひやうらんを聞き、御所の師潰いくさつひえしかば、総州に避けて防ぎ給ふ。管領くわんれいこれを責むること急なりといふ。その明日雀部に別れて、八月はづきの初め京を立ちて、木曽路きそぢを来るに、山賊やまだちあまたに取りこめられ、衣服金銀残りなく掠かすめられ、命ばかりをからうじて助かりぬ。かつ里人の語るを聞けば、東海東山の道はすべて新関を据ゑて人をとどむるよし。また、昨日京より節刀使せつとしも下り給ひて、上杉うへすぎに与くみし、総州の陣いくさに向かはせ給ふ。本国の辺ほとりは疾くに焼きはらはれ、馬の蹄尺地ひづめせきちも間ひまなしと語るによりて、今は灰塵くわいぢんとやなり給ひけん、海にや沈み給ひけんとひたすらに思ひとどめて、また京に上りぬるより、人に餬口くちもらひて七年ななとせは過ぐしけり。このごろすずろにもののなつかしくありしかば、せめてその跡をも見たきままに帰りぬれど、かくて世におはせんとはゆめゆめ思はざりしなり。巫山ふざんの雲、漢宮かんきゆうの幻にもあらざるや。」
「(あなたが)今までこうして無事でいらっしゃると思ったならば、どうして長い年月を(他国で)過ごそうか。先年、都にいた頃、鎌倉の戦乱(のこと)を聞き、御所方の軍勢が敗れたので、(御所方は)総州に逃げて防戦なさる。管領方がこれを追撃するのが烈しいという話であった。その(話を聞いた)翌日、雀部と別れて、(陰暦)八月の初めに都を出発して、木曽路を下ったが、(途中で)大勢の山賊に取り囲まれて、衣服も金銀も全て奪い取られ、命だけはやっと助かった。そのうえ里人の語るのを聞くと、東海道、東山道は、全て新しい関所を設けて人(の往来)を止めているとのこと。また、昨日は都から(征討のため)節度使もお下りになって、(管領の)上杉方に加勢し、総州の陣地にお向かいになった(という)。故郷の辺りはとっくに焼き払われ、(軍の)馬の蹄に踏みにじられない所は少しもないという話を聞いたので、もはや(あなたも戦火のために)灰になってしまわれただろうか、(あるいは)海に(飛び込んで)沈んでしまわれただろうかと、いちずに(あなたは死んだものと)思い諦めて、また都に上ってからは、他人の家に身を寄せ、衣食の世話を受けて七年を過ごしてしまった。近ごろむやみに(故郷が)懐かしくなったので、せめて(あなたの)亡き跡だけでも見たい一心で帰ってきたのだけれども、こうしてこの世に無事でいらっしゃるとは全く思わなかったことだ。巫山の雲、漢宮の幻(の故事のように、夢か幻)ではなかろうか。」

と繰り言こと果てしぞなき。
といつまでも同じことを繰り返して言う。

 妻涙をとどめて、「一たび別れ参らせて後、たのむの秋より前さきに恐ろしき世の中となりて、里人は皆家を捨てて海に漂ひ山に隠こもれば、たまたまに残りたる人は、多く虎狼こらうの心ありて、かく寡やもめとなりしをたよりよしとや、言葉を巧みていざなへども、玉と砕けても瓦の全またきにはならはじものをと、幾たびか辛苦からきめを忍びぬる。銀河秋を告ぐれども君は帰り給はず。冬を待ち、春を迎へても消息おとづれなし。今は京に上りて尋ね参らせんと思ひしかど、丈夫ますらをさへ宥ゆるさざる関の鎖とざしを、いかで女の越ゆべき道もあらじと、軒端の松にかひなき宿に、狐きつねふくろふを友として今日までは過ぐしぬ。今は長き恨みもはればれとなりぬることのうれしく侍り。あふを待つ間に恋ひ死なんは人知らぬ恨みなるべし。」と、
妻は涙をおしとどめて、「いったんお別れ申し上げてより後は、(あなたとの再会を)頼みにして待つ秋になる前に恐ろしい世の中となって、里人はみな家を捨てて海に漂い逃れ、山に隠れ住んだので、まれに残っている人といえば、多くは虎狼の(ような恐ろしい)心があって、(私が)このように寡婦になったのを好都合と思ったのでしょうか、甘言を巧みにして誘惑してきたけれども、(貞操を守って)玉のように砕け散って(死んでしまって)も、(不義をして)瓦のように醜く生きながらえることはすまいと、幾度つらい目を耐え忍んできたことか。天の川が(冴えわたって)秋の到来を知らせても、あなたはお帰りになりません。冬を待ち、春を迎えても(あなたからの)お便りはありません。このうえは都に上って(あなたを)お探し申し上げようと思いましたが、(大の)男でさえ通行を許さない(厳しい)関所の守りを、どうして(か弱い)女の身で越えることのできる道があろうか(、そんな道はあるまい)と(思い直して)、軒端の松を眺め、待つかいのないこの家で、狐やふくろうを友として今日まで過ごしてきました。(こうしてお目にかかれた)今は長年の恨みも晴れ晴れとしたことがうれしゅうございます。(古歌にあるように再び)会う時を待つうちに焦がれ死んでしまったならば、(その情けが)相手に知られず恨めしいことでしょう。」と、

また、よよと泣くを、「夜こそ短きに。」と言ひなぐさめて、ともに臥しぬ。
また、声をあげて泣くのを、(勝四郎は)「(夏の)夜は短いから(また明日のことにしよう)。」と言って慰めて、いっしょに床についた。

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