「古事記:倭建命(やまとたけるのみこと)」の現代語訳(口語訳)

「古事記:倭建命(やまとたけるのみこと)」の現代語訳になります。学校の授業の予習復習にご活用ください。

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「古事記:倭建命」の現代語訳

景行けいこう天皇の皇子倭建命は、天皇から西国の討伐を命じられて九州の熊曽くまそを平定した。疲れ果てて都に帰ったが、その疲れを癒やす暇もなく、すぐまた東国を平定せよという命令を受ける。命みことは、伊勢いせ神宮に参拝し、斎宮さいぐうであったおばの倭比売命やまとひめのみことに会おうとした。

 かれ、命みことを受けてまかり行きし時に、伊勢大御神いせのおほみかみの宮に参入まゐいりて、神の朝庭みかどを拝をろがみて、すなはちその姨をば、倭比売命やまとひめのみことに白まをさく、
そこで、(倭建命は)勅命を受けて(東国へ)下っていった時に、伊勢神宮に参って、神殿を拝み、すぐさまそのおばの、倭比売命に申し上げることには、

「天皇すめらみことの、すでに吾あれを死ねと思ふゆゑや、何。西の方かたの悪しき人どもを撃ちに遣はして、返り参上まゐのぼり来し間に、いまだいくばくの時を経ぬに、軍衆いくさどもを賜たまはずして、今、さらに東ひむがしの方の十とをあまり二つの道の悪しき人どもを平らげに遣はしつ。これによりて思ふに、なほ吾をすでに死ねと思ほし召すそ。」と患うれへ泣きてまかりし時に、
「天皇が、全く私なんか死んでしまえと思うのは、どうしてなのでしょう。西の方の悪者どもを討ちに(私を)遣わして、(都に)帰参してから、まだどれほどの時もたたないのに、軍勢もくださらないで、今、更に東の方の十二か国の悪者どもを平定しに(私を)遣わしました。これによって考えると、私なんか全く死んでしまえと(天皇は)お思いになっていらっしゃるのです。」と嘆き泣いて退出した時に、

倭比売命、草なぎの剣つるぎを賜ひ、また御嚢みふくろを賜ひて、詔り給たまひしく、「もし、にはかなる事あらば、この嚢の口を解け。」と詔り給ひき。
倭比売命は、草なぎの剣をお与えになり、また御嚢をお与えになって、おっしゃったことには、「もし、火急のことがあったならば、この嚢の口を開けなさい。」とおっしゃった。

  そこから倭建命は尾張おわりの国に赴き、その地の豪族の娘、美夜受比売みやずひめに出会い、帰路には結婚することを約して相模さがみの国に向かった。

 かれ、しかくして、相模さがむの国に到いたりし時に、その国造くにのみやつこ、詐いつはりて白ししく、
さて、そのようにして、相模国に着いた時に、その国造が、偽って申し上げたことには、

「この野の中に大き沼あり。この沼の内に住める神は、はなはだちはやぶる神そ。」と白しき。
「この野原の中に大きな沼があります。この沼に住んでいる神は、非常に霊力が強く荒々しい神です。」と申し上げた。

ここに、その神を見そこなはさむとして、その野に入りましき。
そこで、(倭建命は)その神をご覧になろうとして、その野原にお入りになった。

しかくして、その国造、火をその野につけき。
そのようにして、その国造は、火をその野原に放った。

かれ、欺かえぬと知りて、その姨、倭比売命の賜へる嚢の口を解き開けて見れば、火打ち、その内にあり。
そこで、(倭建命は)だまされたと知って、そのおばの、倭比売命がお与えになった嚢の口を解き開けて見ると、火打ち石と火打ち金がその中にある。

ここに、まづその御刀みはかしをもちて草を刈り払ひ、その火打ちをもちて火を打ち出だして、向かひ火をつけて焼き退け、還かへり出でて、みなその国造らを切り滅ぼして、すなはち火をつけて焼きき。
そこで、まずその御刀で(周囲の)草を刈り払い、その火打ち石と火打ち金で火を打ち出して、向かい火をつけて火勢を退け、(野原を)脱出して、その国造どもをみな斬り滅ぼし、すぐさま(死体に)火をつけて焼いた。

かれ、今に焼遺やきつといふ。
それゆえ、今日(その地を)焼津というのである。

 そこより入り出でまして、走水はしりみづの海を渡りし時に、その渡りの神、波を起こし、船を廻めぐらせば、進み渡ること得ず。
そこから(更に東方の辺境へと)お進みになって、走水の海を渡った時に、その海峡の神が、波を起こし、船をぐるぐる回すので、(倭建命は)進み渡ることができない。

しかくして、その后きさき、名は弟橘比売命おとたちばなひめのみこと白ししく、
そこで、その后、名は弟橘比売命が申し上げたことには、

「吾、御子みこに代はりて、海の中に入らむ。御子は、遣はさえし政まつりごとを遂げ、覆奏かへりことまをすべし。」と白しき。
「私が、(海神の怒りを鎮めるための人身御供として)御子に代わって海の中に入りましょう。御子は、(東征に)遣わされた政務を成し遂げ、(天皇に)復命せねばなりません。」と申し上げた。

海に入らむとする時に、菅畳八重すがたたみやへ、皮畳八重かはたたみやへ、きぬ畳八重きぬたたみやへをもちて、波の上に敷きて、その上に下りましき。
海に入ろうとする時に、菅の敷物、皮の敷物、絹の敷物をそれぞれ幾枚も重ねて、波の上に敷いて、(弟橘比売命は)その上に下りていらっしゃった。

ここに、その荒波おのづからなぎて、御船みふね進むこと得たり。
それで、その荒波が自然と静まって、御船は進むことができた。

しかくして、その后の歌ひて言はく、
そのようにして、その后が歌って言うことには、

  さねさし 相模の小野をのに 燃ゆる火の 火中ほなかに立ちて 問ひし君はも
相模の野原で、燃える火の中に立って、私の安否を尋ねてくださったわが君よ。

かれ、七日なぬかの後のちに、その后の御櫛みくし、海辺うみへに寄りき。
さて、七日の後に、その后の御櫛が海辺に流れ着いた。

すなはち、その櫛を取り、御陵みはかを作りて、治め置きき。
そこで、その櫛を拾い取り、御陵を作って、(その中に)納め置いた。

 そこより入り出でまし、ことごとく荒ぶる蝦夷えみしどもを言向ことむけ、
そこから(更に東方の辺境へと)お進みになって、残らず荒れすさぶ蝦夷どもを説得し服従させ、

また、山河やまかはの荒ぶる神たちを平らげ和やはして、還り上り出でましし時に、足柄あしがらの坂本さかもとに到りて、御粮みかりてを食むところに、
また、山や河の荒れすさぶ神たちを平定し服従させて、(都へ)帰り上っていらっしゃった時に、足柄峠の麓に着いて、御乾飯を食べているところに、

その坂の神、白き鹿と化りて来立ちき。
その坂の神が、白い鹿に化身して来てその場に立った。

しかくして、すなはち、その食ひ遺のこせる蒜ひるの片端をもちて、待ち打ちしかば、その目に当てて、すなはち打ち殺しき。
そこで、すぐさま、(倭建命は)その食べ残した野蒜の片端で、待ち構えて打ったところ、その目に命中させて、その場で打ち殺した。

かれ、その坂に登り立ちて、三たび嘆きて、詔り給ひて言ひしく、「吾妻あづまはや。」と言ひき。
そこで、(倭建命は)その峠に登り立って、幾度も嘆息して、おっしゃったことには、「わが妻よ、ああ。」と言った。

かれ、その国を名付けて、吾妻といふ。
それゆえ、その国を名付けて、吾妻というのである。

 すなはち、その国より甲斐かひに越え出でて、酒折さかをりの宮に坐いましし時に、歌ひて言はく、
そこで、その国から甲斐に越えて出て、酒折の宮においでになった時に、(倭建命が)歌って言うことには、

  新治にひばり 筑波つくはを過ぎて 幾夜か寝つる
新治や筑波の地を過ぎてから、今までに幾夜寝たことか。

しかくして、その御火焼みひたきの翁おきな、御歌みうたに続ぎて、歌ひて言はく、
すると、その宮の夜警のためにかがり火をたく役の翁が、(倭建命の)御歌に続けて、歌って言うことには、

  日々並かがなべて 夜には九夜ここのよ 日には十日を
日数を重ねて、夜では九夜、昼では十日になりますよ。

ここをもちて、その翁を誉めて、すなはち東あづまの国造を賜ひき。
このことによって、その翁を褒めて、すぐに東の国造(の姓)をお授けになった。

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