「玉勝間(たまかつま):兼好法師が詞のあげつらひ」の現代語訳(口語訳)

「玉勝間(たまかつま):兼好法師が詞のあげつらひ」の現代語訳になります。学校の授業の予習復習にご活用ください。

スポンサーリンク

「玉勝間(たまかつま):兼好法師が詞のあげつらひ」の現代語訳

 兼好法師が徒然草つれづれぐさに、「花は盛りに、月は隈くまなきをのみ見るものかは。」とか言へるは、いかにぞや。
兼好法師が『徒然草』で、「(桜の)花は盛り(に咲いているの)だけを、月は(一点の)曇りもない(輝いている)のだけを見る(賞美する)ものであろうか。(いや、そうではない。)」とか言っているのは、どうだろうか。

いにしへの歌どもに、花は盛りなる、月は隈なきを見たるよりも、花のもとには風をかこち、月の夜は雲を厭いとひ、あるは、待ち惜しむ心づくしを詠めるぞ多くて、
昔の歌などに、花は盛りのものを、月は曇りのないものを見た歌よりも、花の下では(花を散らす)風を嘆き、月の夜は(月を隠す)雲をいやがり、または、(花が咲き月が出るのを)待ち(花が散り月に雲がかかるのを)惜しんで気をもむことを詠んだ歌が多くて、

心深きも、ことにさる歌に多かるは、みな、花は盛りをのどかに見まほしく、月は隈なからんことを思ふ心のせちなるからこそ、さもえあらぬを嘆きたるなれ。
趣深い歌も、特にそのような歌に多いのは、みんな、花は盛りのものをのんびりと見たく思い、月は曇りがないようなことを願う心がいちずであるからこそ、そうもあることができないのを嘆いているのだ。

いづこの歌にかは、花に風を待ち、月に雲を願ひたるはあらん。
どこの歌に、花に風(が吹くの)を待ち、月に雲(がかかるの)を願っている歌があるだろうか。(いや、ありはしないだろう。)

さるを、かの法師が言へるごとくなるは、人の心に逆ひたる、後の世のさかしら心の作りみやびにして、まことのみやび心にはあらず。
それなのに、あの法師が言っているようなことは、人の心に逆らった、後世のこざかしい心のことさらに作りあげた風情であって、本当の風流心ではない。

かの法師が言へる言ども、この類ひ多し。
あの法師が言っている言葉には、この類いが多い。

みな、同じことなり。
みんな、同じことである。

 すべて、なべての人の願ふ心にたがへるをみやびとするは、作りことぞ多かりける。
総じて、普通の人が願う気持ちと違っているのを風流とするのは、作り事が多いものだなあ。

恋に、あへるを喜ぶ歌は心深からで、あはぬを嘆く歌のみ多くして心深きも、あひ見んことを願ふからなり。
恋(を詠んだ歌)において、契りを結んだことを喜ぶ歌は趣深くなくて、契りを結ばないことを嘆く歌ばかり多くて趣深いのも、契りを結ぶようなことを願うためである。

人の心は、うれしきことはさしも深くはおぼえぬものにて、ただ、心にかなはぬことぞ深く身にしみてはおぼゆるわざなれば、すべて、うれしきを詠める歌には、
人の心は、うれしいことはたいして深くは感じないものであって、ただ、思いどおりにならないことは深く身にしみて感じられることであるので、総じて、うれしいことを詠んだ歌には、

心深きは少なくて、心にかなはぬ筋を悲しみ憂へたるに、あはれなるは多きぞかし。
趣深いものは少なくて、思いどおりにならない事柄を悲しみ嘆いた歌に、しみじみと風情があるものが多いことだよ。

しかりとて、わびしく悲しきをみやびたりとて願はんは、人のまことの情こころならめや。
そうだからといって、つらく悲しいのを風流であると言って願うようなことは、人の真実の心情であろうか。(いや、そうではないだろう。)

 また、同じ法師の、「人は四十歳よそぢに足らで死なんこそ、めやすかるべけれ。」と言へるなどは、
それから、同じ法師が、「人は四十歳に満たないで死ぬようなことが、見苦しくないだろう。」と言っていることなどは、

中ごろよりこなたの人の、みな、歌にも詠み、常にも言ふ筋にて、命長からんことを願ふをば心汚こころぎたなきこととし、早く死ぬるをめやすきことに言ひ、
平安時代後期以降の人が、みんな、歌にも詠み、普段にも言う事柄であって、寿命が長くあるようなことを願うのを心が卑しいこととし、早く死ぬのを見苦しくないことだと言い、

この世を厭ひ捨つるをいさぎよきこととするは、これみな、仏の道にへつらへるものにて、多くは偽りなり。
この世を嫌い捨てるのを潔いこととするのは、これはみんな、仏教の道理に追従したものであって、たいていは偽りである。

言にこそさも言へ、心のうちには誰たれかはさは思はん。
言葉ではそうも言うが、心の中では誰がそう思うだろうか。(いや、誰も思わないだろう。)

たとひ、まれまれにはまことにしか思ふ人のあらんも、もとよりの真心にはあらず。
たとえ、ごくまれには本当にそう思う人がいるとしても、(それは)元来の本心ではない。

仏の教へに惑へるなり。
仏教の教えによって迷っているのである。

 人の真心は、いかにわびしき身も、早く死なばやとは思はず、命惜しまぬ者はなし。
人の本心は、どんなにつらい身でも、早く死にたいものだとは思わないし、命を惜しまない者はいない。

されば、万葉などのころまでの歌には、ただ、長く生きたらんことをこそ願ひたれ。
それだから、万葉集などの頃までの歌には、ただ、長く生きているようなことを願っている。

中ごろよりこなたの歌とは、その心うらうへなり。
平安時代後期以降の歌とは、その精神が反対である。

すべて何ごとも、なべての世の人の真心に逆ひて、異なるをよきことにするは、外国とつくにのならひの移れるにて、心を作り飾れるものと知るべし。
総じて何事も、普通の世間の人の本心に逆らって、違っていることをよいことだとするのは、外国の習慣(仏教や儒教の考え方)がしみついてしまったのであって、(人間が持つ本来の)心情を作り飾ったものと理解しなければならない。

出典

兼好けんかう法師が詞ことばのあげつらひ

参考

「精選古典B(古文編)」東京書籍
「教科書ガイド精選古典B(古文編)東京書籍版 2部」あすとろ出版

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク