「大鏡:花山天皇の出家・花山院の出家」の現代語訳(口語訳)

「大鏡:花山天皇の出家・花山院の出家」の現代語訳になります。学校の授業の予習復習にご活用ください。

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「大鏡:花山天皇の出家・花山院の出家」の現代語訳(口語訳)

円融えんゆう天皇が退位した後には花山天皇が即位したが、政治の実権を握ろうとしていた藤原兼家ふじわらのかねいえは、自分の娘である詮子せんしと円融天皇との間に生まれた東宮懐仁とうぐうやすひと(後の一条天皇)を早く帝位につけたいと望んでいた。

 次の帝、花山院かざんいん天皇と申しき。冷泉院れいぜいいんの第一の皇子みこなり。御母、 贈皇后宮懐子ぞうこうごうぐうかいしと申す。
次の帝は、花山院天皇と申し上げました。冷泉院の第一皇子であります。御母は、贈皇后宮懐子と申し上げます。

永観えいくわん二年八月二十八日、位につかせ給たまふ。
(花山天皇は)永観二年八月二十八日、ご即位なさいました。

御年十七。
御年十七歳(の時です)。

寛和くわんな二年丙戌ひのえいぬ六月二十二日の夜、あさましく候さぶらひしことは、人にも知らせさせ給はで、みそかに花山寺くわさんじにおはしまして、御出家入道おんしゆつけにふだうせさせ給へりしこそ。
寛和二年丙戌六月二十二日の夜、意外で驚いたことは、誰にもお知らせにならないで、ひそかに花山寺においでになって、ご出家入道なさったことであります。

御年十九。
(時に)御年十九歳。

世を保たせ給ふこと二年。
世をお治めになったのは二年間。

その後二十二年おはしましき。
ご出家の後二十二年間ご存命になりました。

 あはれなることは、おりおはしましける夜は、藤壺ふぢつぼの上うへの御局みつぼねの小戸こどより出でさせ給ひけるに、有明ありあけの月のいみじく明かかりければ、
しみじみとお気の毒に思われますことは、ご退位なさった夜、藤壺の上の御局の小戸からお出ましになったところ、有明の月がたいそう明るかったので、

「顕証けんしようにこそありけれ。いかがすべからむ。」と仰せられけるを、
(天皇が)「あまりにあらわ(で気がひけること)だなあ。どうしたらよかろうか。」とおっしゃったのですが、

「さりとて、とまらせ給ふべきやう侍はべらず。神璽しんし、宝剣渡り給ひぬるには。」と、粟田殿あはたどのの騒がし申し給ひけるは、
「そうかといって、(今更)お取りやめになってよいものではございません。(既に)神璽、宝剣が(東宮のほうに)お渡りになってしまいましたからには。」と、粟田殿(=道兼)がせきたて申し上げなさったのは、

まだ帝みかど出でさせおはしまさざりけるさきに、手づから取りて、春宮とうぐうの御方に渡し奉り給ひてければ、
まだ天皇がお出ましにならなかった前に、(粟田殿が)自分自身で(神璽、宝剣を)取って、東宮のほうにお渡し申し上げなさってしまったので、

帰り入らせ給はむことはあるまじく思おぼして、しか申させ給ひけるとぞ。
(天皇が)宮中にお帰りになるようなことはあってはならないとお思いになって、そのように申し上げなさったのだと(いうことです)。

 さやけき影を、まばゆく思し召しつるほどに、月の顔にむら雲のかかりて、少し暗がりゆきければ、
(天皇は)明るい月の光を、気がひけることとお思いになっているうちに、月のおもてに群雲がかかって、(辺りが)少し暗くなっていったので、

「わが出家は成就じやうじゆするなりけり。」と仰せられて、
「私の出家は(やはり)実現するのだなあ。」とおっしゃって、

歩み出でさせ給ふほどに、弘徽殿こきでんの女御にようごの御文おんふみの、日ごろ破り残して御身も放たず御覧じけるを思し召し出でて、
歩き出しなさる時に、(亡くなった)弘徽殿の女御のお手紙で、平素破り捨てずに取っておいて御身から離さないでご覧になっていらっしゃったお手紙を思い出しなさって、

「しばし。」とて、取りに入りおはしましけるほどぞかし、
「ちょっと(待て)。」とおっしゃって、取りにお戻りになった時のことですよ、

粟田殿の、「いかにかくは思し召しならせおはしましぬるぞ。ただ今過ぎば、おのづから障りも出でまうで来なむ。」と、そら泣きし給ひけるは。
粟田殿が、「どうしてこのように(未練がましく)お思い込みになってしまわれるのですか。今この機会を逃したら、自然と差し障りも生じてまいりましょう。」と言って、うそ泣きをなさったのは。

 さて、土御門つちみかどより東ひんがしざまに率て出だし参らせ給ふに、晴明せいめいが家の前を渡らせ給へば、自らの声にて、手をおびたたしくはたはたと打ちて、
さて、(粟田殿は、天皇を)土御門大路を東の方に向かってお連れ出し申し上げなさった時に、安倍晴明の家の前をお通り過ぎになると、晴明自身の声で、手をしきりにぱちぱちとたたいて、

「帝おりさせ給ふと見ゆる天変てんべんありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。参りて奏せむ。車に装束さうぞくうせよ。」と言ふ声聞かせ給ひけむ、さりともあはれには思し召しけむかし。
「天皇がご退位なさると思われる天空の異変があったが、既にご退位は済んでしまったと思われるなあ。宮中に参上して奏上しよう。車に支度を早くしろ。」と言う(晴明の)声をお聞きになった天皇のお気持ちは、覚悟のうえのご出家とは申しながら感慨無量にお思いになったことでしょうよ。

「かつがつ、式神しきがみ一人内裏に参れ。」と申しければ、
(晴明が)「とりあえず、式神一人宮中へ参上せよ。」と申しましたところ、

目には見えぬものの、戸を押し開けて、御後ろをや見参らせけむ、「ただ今、これより過ぎさせおはしますめり。」といらへけりとかや。
(人間の)目には見えない何ものかが、戸を押し開けて、(天皇の)後ろ姿を見申し上げたのでしょうか、「ちょうど今、家の前をお通りになっているようです。」と答えたとかいうことです。

その家、土御門町口まちぐちなれば、御道おんみちなりけり。
その(晴明の)家は、土御門大路と町口小路の交わる辺りですから、(花山寺への)お通り道であったわけです。

 花山寺におはしまし着きて、御髪みぐしおろさせ給ひて後にぞ、粟田殿は、「まかり出でて、大臣おとどにも、変はらぬ姿いま一度見え、かくと案内あない申して、必ず参り侍らむ。」と申し給ひければ、
(天皇が)花山寺にお着きになって、ご剃髪なさった後になって、粟田殿は、「(私はいったん)退出いたしまして、(父の)大臣(=兼家)にも、(出家前の)変わらぬ姿をもう一度見せ、これこれと事情をお話しして、必ず(ここに)戻って参りましょう。」と申し上げなさったので、

「朕われをば謀るなりけり。」とてこそ泣かせ給ひけれ。
(天皇は)「私をだましたのだなあ。」とおっしゃってお泣きになったそうです。

あはれに悲しきことなりな。
しみじみとおいたわしく悲しいことでありますよ。

日ごろ、よく御弟子にて候はむと契りて、すかし申し給ひけむがおそろしさよ。
(粟田殿が)平素、よく(天皇がご出家なさったら)お弟子としてお仕えいたしましょうと約束しておいて、だまし申し上げなさったというのは恐ろしいことですよ。

東三条殿とうさんでうどのは、もしさることやし給ふとあやふさに、さるべくおとなしき人々、
東三条殿(=兼家)は、ひょっとして(粟田殿も成り行き上)出家なさるのではないかと気がかりなために、(こういう場合に)ふさわしくて思慮分別に富んだ人々で、

なにがしかがしといふいみじき源氏げんじの武者むさたちをこそ、御送りに添へられたりけれ。
何の誰それというりっぱな源氏の武者たちを、護衛として添えられていたということです。

京のほどは隠れて、堤のわたりよりぞうち出で参りける。
(武者たちは)京の町のうちは隠れて(後をつけ)、(鴨川の)堤の付近から姿を現してお供いたしたそうです。

寺などにては、もし、おして人などやなし奉るとて、一尺ばかりの刀どもを抜きかけてぞ守り申しける。
(特に)寺(に着いてから)などでは、もしや、誰かが無理に(粟田殿を)出家させ申し上げはしないかと気遣って、一尺ばかりの刀を抜きかけてお守り申し上げたということです。

【花山院 師貞】

脚注

  • 顕証 あらわなさま。
  • 神璽、宝剣 八坂瓊曲玉やさかにのまがたまと草薙剣くさなぎのつるぎ
  • 春宮 皇太子。
  • 晴明 安倍あべの晴明〔九二一―一〇〇五〕。高名な陰陽師おんようじ、天文博士。
  • 天変 天空の異変。
  • 装束 ここでは、支度のこと。
  • 式神 陰陽師が使う鬼神で、ふつうは人の目には見えないという。
出典

花山くわさん天皇の出家

参考

「精選古典B(古文編)」東京書籍
「教科書ガイド精選古典B(古文編)東京書籍版 1部」あすとろ出版

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