十七条の憲法の解説

  • 604年に制定された役人に対しての心構えが書かれた十七条。
  • 仏教を尊ぶことを明記している点が特徴。
スポンサーリンク

現在の憲法とはちょっと違う

十七条の憲法とは604年に推古天皇の治世下で聖徳太子が作ったとされる十七条の政治方針です。現代において憲法というと国民の権利の一番根本となる決まりごとが書かれていますが、十七条の憲法は国民にあてて出されたものではなく、役人たちへの心得を示したものです。

どんなことが書かれているの?

もっとも有名なのは第一条の「和を以って貴しとし・・・」の箇所と、第二条の「篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。」の箇所です。和を尊重するべきというのは今にも通じる心構えですね。第二条では国家政策として仏教を推進していることが分かります。

仏教と聖徳太子

聖徳太子の育った少年時代、仏教は日本に伝わって間もない黎明期でした。そのため、仏教に反対する勢力も強く、物部氏などを中心として「仏教などという外国の神を敬えば日本古来の神々が祟りを起こす。」という考えを持つ人もいました。しかし587年に物部氏が滅されると、廃仏派の勢力も弱まりました。そこでもとから崇仏派の中心人物として仏教に造詣の深かった聖徳太子は国の方針として仏教を全面的にバックアップする事ができたと考えられます。
ちなみに百済の聖明王から仏像を送られた欽明天皇は聖徳太子の祖父にあたります。また、聖徳太子の母親は蘇我馬子の姪にあたり、崇仏派の蘇我氏と親密な関係にありました。

覚え方

604年制定ですので、「群れ寄る(604)役人の心構え」と覚えておきましょう。

参考 

浜島書店『新詳日本史』
東京書籍『詳解 日本史資料集』

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク